多くの商業的成功の歴史をもつメルボルン
1850年代から1860年代にかけての大規模なゴールドラッシュの後、メルボルンは植民地の主要港かつ中心地となり、その鉄道網は地方の町や港まで広がっていました。Marvellous Melbourne(すばらしきメルボルン)と広く呼ばれるようになった当時のメルボルンは大英帝国で最大級の都市であり、世界でも有数の裕福な都市の一つでした。オーストラリア四大銀行の一つであるNational Australia Bank (NAB)はこの時代に創立されました。中心地の広い道路には華麗なビクトリア調建造物が立ち並び、巨大な木々が中心街から徐々に都市全体に広がり、豪華な公共建築と庭園がメルボルンを取り囲んでいました。
19世紀後半から20世紀にかけてメルボルンは産業の中核へと急速に発展を遂げ、世界中から投資を集めました。FordやBoeingなどの企業は80年以上にわたってビクトリア州に拠点を置いています。ExxonMobilは60年以上もメルボルンで原油を精製し、トヨタは50年以上前にメルボルンで自動車の製造を開始しました。
時代が変わるにつれ、メルボルンも適応を余儀なくされました。1990年代にビクトリア州経済は世界的な景気後退による深刻な打撃を受けました。ビクトリア州の生産拠点もその影響をまぬがれず、深刻な雇用喪失に見舞われました。メルボルンはデトロイトなどの都市と同じ運命に直面したのです。しかし、錆びついた過去の工場地帯になるのではなく、メルボルンは優れたサービス業と先端製造業を経済の基盤とするグローバル都市へと変貌を遂げました。郵便番号3000番の都市中心街は商業が活発で国際色豊かなメトロポリスとなる基礎を築き、不動産開発や雇用の創出を招いて人口も増加しました。
その後教育機関に多額の投資が行われ、これが高度な技術を有する今日の人材を育て、力強い教育産業を生み出しました。 メルボルン大学やモナッシュ大学などの一流大学は世界有数の教育水準で知られるようになり、今ではアジアをはじめとして世界中から多くの留学生が集まります。
ビクトリア州はインフラに多大な投資を行い、統合された輸送網を構築して貿易を急増させました。州政府はバイオテクノロジーとICTにおける新しい産業セクターの構築や創出を支援し、価値の高い産業と雇用を生み出しました。集中的な投資と政府の強力な支援によってメルボルンはバイオテクノロジーとICTの一流拠点となり、こういった産業のリーダーであるIBM、Siemens、GSKやメルボルン企業のCSLなどはメルボルンとビクトリア州が活発な研究開発拠点へと変貌するプロセスを促進しました。
アジアからの移民が急増して労働人口が増え、労働者の技術や能力も向上したことでビクトリア州は恩恵を得ました。この人口増加により住宅の建設が進み、州全体の経済活動が拡大しました。2000年代初期には資源ブームが始まり、メルボルンに本拠を置く鉱物資源セクターの大手BHP BillitonやRio Tintoを対象にしたサービス業が増大したこともビクトリア州に利益をもたらしました。
同時にアジアの新市場、特に中国と日本への輸出がビクトリア州の新しい収入源となり、追加的経済活動を促進しました。ビクトリア州は農業における技術や能力を基盤として食品・繊維産業を築き、州単位の輸出量では国内首位となり、農業製品の輸出額は年間90億豪ドル以上にのぼります。
メルボルンはICT、各種専門サービスや金融サービス、先端製造業、先端食品加工、バイオテクノロジー、クリーンテクノロジーなど、多くの産業で世界中からの投資を歓迎しています。2013-2014年にインベスト・ビクトリアはビクトリア州への26億豪ドル以上の外国直接投資を支援し、これによりビクトリア州では新たに6,300件のフルタイム雇用が創出されました。1
資料: 1.2013-14年DSDBI年次報告書
Richmond to Footscray Rail Corridor Projects
Maecenas sed diam eget risus varius blandit sit amet non magna. Vivamus sagittis lacus vel augue laoreet rutrum faucibus dolor auctor. Morbi leo risus, porta ac consectetur ac, eros.